本当の勝負は決して「今」ではない
- 英国在住の方にとって、セカンダリースクール選びは精神的に負担になることが多いと思います。私の子供が通う学校(State の Primary School)でも、受験に猛進しているご家庭は少なくないようです。
- 例えば、とてもできると言われている子で低学年なのに時々高学年の授業を受ける子供もいました。ここで「できる」というのは先取りで知識を覚えこませている場合がほとんどです。しかし、これは幼児期の子に時計の読み方を教え込んで、この子は天才かもしれないと言っているのと同じです。数年経てば時計など誰でも読めるようになります。高学年になって「...歳の時に時計が読めたんだ」と言って誰が相手にするでしょうか。
- セカンダリー受験も同じです。受験問題を見れば分かりますが、思考力を要する問題ではありません。単純思考とただの知識の先取りをやっているだけです。それだけのためにパターン認識、高速・反復繰り返しをすることは恐ろしいことです。子供の思考回路を作成するための下地を粉砕するかもしれないからです。
- 学校でテストがあったとき私の子供がこんなことを言っていました。「自分が1題やっている間にできる子たちは次のページをやっていた。ものすごいスピードでやり終えるんだよ。」
- ものすごいスピードでできるということは思考を止めた状態でパターン認識をしているということです。これを長期間やっていると思考を止めた状態で作業をする頭に固めてしまいます。高学年になる前からそのようなパターン練習をたくさんする子供もいると思います。私は考えただけでもゾッとします。
- 私は学歴を軽視するつもりはありません。学歴がなければスタートラインにすら立てない、勝負すらさせてもらえない、などという状況はいやというほど見てきました。それでも私はセカンダリーレベルでの受験用の勉強はできれば避けるべきとの立場です。本当の力を得るためにもプライマリーという脳の発育過程において最も大切な時期を慎重に過ごすべきとの考えです。本当の勝負は決して「今」ではない。「急がばまわれ」だと思っています。
セカンダリーは一生に関る最も大切なこと?
- よく聞こえてくるセリフです。本当にそうでしょうか。私は10歳程度という年齢で勝負させてはいけないと考えています。脳の成長が完了する前のまだ守らなくてはいけないときだからです。
- Grammar School など Selective の学校はものすごい競争倍率です。10倍から20倍くらいあるのは普通ではないでしょうか。そして、「それが一生にかかわる事」となると、受験への熱の入り方も相当です。
- 私にはとても奇妙に見えます。有名校に入るために猛烈なパターン認識で受験に備える。しかし、そのような受験勉強をやることで子供はセンスを潰され、勉強を楽しく感じながら自分でやっていけないようにされている可能性が高い。有名校に入るために本当の学力を失い、Selective School もセンスを潰してきた子供を欲しがっているように見えてしまいます。
- プライマリーのY6は子供の思考回路作成の最終段階です。この時期に最後の仕上げを丁寧に行うことができ、本物の学力を養成された子供にとってはセカンダリー選びはそこまで重要ではないのだと思います。セカンダリー以降その子が伸びるかどうかは実はプライマリーの段階での学力養成で決まってくる。このプライマリーの本当に貴重な時間をセカンダリー受験は奪ってしまう可能性が高いのです。
- また、「良い学校」なる定義は人によって当然違います。例えば、私の子供にとって良い学校とは宿題を出さない学校です。教師の自己裁量で適当に出された検証もされていない宿題などやっている暇はないからです。「すべての時間を自分の好きなように使いたい。勉強は自分で楽しくしたい。」と子供は思っています。
それでも受験から離れられない場合
- そうではあっても、できれば良い教育や環境を与えるため良い学校に通わせたい、というのは子を思う親の正直な気持ちではないでしょうか。人は親になった瞬間に何の理論も知識もない状態で日々忙殺されるなか、教育者になることを強要されます。自分の子供が社会で立派にやっていけるよう強く願い、周囲の人が良いといっている塾に通わせてみたり、気がつけば時間ばかり過ぎてしまっている。自分の子供の成長を見ながら、これで本当に良かったのかとの疑問が常に付きまとう。
- 「本当に良かったのか」
- おそらく良くないのだと思います。子供の脳は developing であって、決して developed ではありません。この developing の状態なのに大人の感覚に近い受験(受験勉強)をやるから問題が生じます。大人の感覚とは、速くかつ正確に処理をしなければいけない、ということです。子供にこれをさせるため、子供の感情を潰して Robotic にパターン認識をさせてしまうケースが多い。これを長期間やっている子供は言動や行動が攻撃的、情緒的に不安定になりやすい。感情が潰れてしまうようなことをしているのですから当然なのかもしれません。
- これを避けるには本当の思考力をゆっくり身につけるしかないと考えます。そして、受験問題程度ならゆっくりやれば解ける、という状態になっていることです。受験用の勉強は問題の形式に目を通すくらいにし、受験はただのイベントで合否はあまり関係ないと思えるようになっていることです。これなら子供へのダメージはほとんどないでしょう。英国のセカンダリー受験ならこのような状態に近づけることはそこまで難しくないと思います。
- 実際の対策としては、出題されるレベル以上の問題をパターン認識させないようにゆっくり、丁寧にイメージ再現で解くことです。QMCの添削サービスなら Selective School の試験問題よりは遥かにおもしろく難易度も十分だと思います。
かまきりのお話
- かまきりは積雪量を予知する能力があるというお話です。「カマキリは大雪を知っていた」という酒井與喜夫さんの本が出版されています。かまきりの語源が預言者や占い師、祈る虫と聞くとわくわくします。もともと電気屋さんを営んでいた酒井さんが毎冬のアンテナ修理のときにかまきりの卵のある位置に疑問を持ち、そこから始まるお話です。
- かまきりは大雪を予知できるのではないか?酒井さんが冬に仕事をしていると毎年、積雪量が違うのにかまきりはいつも雪が積もる高さより高い位置に卵を産み付けていることを見て思ったことだ。
- かまきりは夏を越し秋に卵を産み付け冬になる前に死んでしまうので、かまきりのお母さんは自分の子供が生まれる初夏の頃まで守ることができない。このため、かまきりのお母さんは自分の子孫を残すために雪に埋もれてしまうような高さに卵を産み付けるわけにいかない。しかも、自分はおなかが大きく自由の利く体ではないから雪に埋もれない程度のぎりぎりのところに産み付けている。
- それだけではない。かまきりは卵を産み付けてからしばらく(6時間前後)は雨が降らないことを知っている。卵を産み付けてから完全に乾くまでには一定の時間が必要で、その間に天候の激変があってはならないからからだ。また、産み付けてからほぼ90日後に最初の降雪が観測されるという。卵を産みつける時期が早すぎると、暖かい日々が長く続いた場合に冬を越す前にふ化してしまうおそれがある。そのちょうど良い時期がかまきりにとって降雪の3ヶ月前だという。
- どうしてそんなことができるのか。
- かまきりはスギの木などに登って産卵するが、なんとその樹木から地球の地殻変動を感じ取っているのだ。樹木が地殻の変動により振動し、その振動は樹木が地底から水分を吸い上げる高さと関係している。地殻変動は将来の気候の設計図となり、かまきりはそれ感じ取っているというのだ。
- 酒井さんのシャープな考察は続きます。1日24時間で、地球一回りを360度として90度前、時間にして約6時間前に地中から天気信号が送られているのではないか。つまり、いま発信された地中の信号が6時間後の天気の設計図と考えられないか。更に、1年365日を360度に置き換えて、90度前、つまり日数にして約90日前に天気信号が発信されているのではないかと。これがかまきりの予知能力の正体ではないか。
- そして、この90度の意味とは、地球を巨大な発電機だとしてフレミング右手の法則を使い、親指が動く向き、人差し指が磁界の向き、中指が起電力の向きとして適用すると、中指で生じた起電力はいつも90度遅れて発現することになる。こうして今までの推論が正しいことが裏付けられる。
- これ以上は本をご参照いただきたいのですが、ここで私が感じるところは、真実はいつもコンセンサスにはないということです。「人の行く裏に道あり花の山....」です。
- 気象予報と言うとローレンツ方程式を思い出します。1960年代にマサチューセッツ工科大学の気象学者が提唱したものです。解の挙動が初期値に大きく依存しており、ある一定の時間が経つとカオス状態となる。つまり、一寸先は闇、予測不可能な振る舞いをするというものです。
- いかにもかっこいい。気象を研究し非線形方程式からその解の挙動はこういう振る舞いをする、だから予測不能だ。非の打ち所がありません。しかし、どうもしっくりこない。気象だから空を見て雲をみて風をみてその動きを分析して、非線形方程式を立て研究し、かっこよくプレゼンして。。。陳腐です。はっきり言ってつまらない。
- 酒井さんは空で起きていることを知るために、地中をみて、かまきりを見て、自然を感じて、そして、気象の予測は必ずしも不可能ではないと結論付ける。ずっとかっこいいです。頭をガーンと殴られたような衝撃的な発想の転換です。このかまきりの物語自体とても興味深いのは当然ですが、ここで暗示されていることはもっと深く、本質を見抜くということはどういうことなのか教えてくれているような気がします。
- 真実はいつもコンセンサスにはない「人の行く裏に道あり花の山」、有象無象の迷信に近いコンセンサスは危険かもしれません。子育てにも取り入れたい発想です。